3年前の子供の日、自分もまだ子供だった頃(笑)
Facebookのお節介機能で3年前の今日の写真が出てきた。
東京から来た客人を連れ、土岐市内の観光だけでなく犬山城や岐阜城、加納城跡なども含め色々と案内したのが懐かしい。
顔ハメ看板って、何と言うか人を妙に笑顔にするな~と感じる。
ちょっとしたアホっぽさが良いのではないか?
そうしてみると、土岐市内の観光地にも設置したら良いんじゃないかな?
それはさておき。
数年前のこういう自分の姿を見るにつけ、子供が居なかったこの頃は、自分自身が実に子供だったなと思わされる。
この顔ハメ看板自体がどうということよりも、この時の自分の心境を振り返ってみたり、この旅の行程や何をしたかを思い出すと、要所要所に思い出すと恥ずかしかったり、今だとちょっとそれは無いな、と思わされるようなものがあったりする。
きっと世の中には子供が無くてもしっかり育って大人になる人がいるんだろうけども、わぁに限って言えば明らかに子供が生まれたお陰で大きな変化があったし、今もし居なければこういう変化は無かったと言える。
肉体的・精神的に20歳を過ぎ30歳、40歳となるにつれ、当然ながら自分では「わぁはまだ子供だ」などと認識することは少なくなるけども、自分の子供がいない以上は「わぁは両親にとっては子供だ」ということが前面に出て来やすい気がする。
一方で自分に子供ができると、子供の日は自分自身よりも子供に一層の思いが向く日になったり、親となった立場から「わぁの両親も(親として)大変だったんだな」などと思いを馳せる日になる。
この立場にならないと分からないというのが、つくづく未熟な人間だと思わされるところ。
まぁそんなことを言っても意味がないので、多くの人がそうなんじゃないかな?と思うことにしておくけども(^_^;)
結婚して女性への見方が変わり、子供が生まれて子供の日の意味づけが変わり、きっと今後も何がしかの変化がある度にモノの見方や意味づけが変わっていくんだろう。
こうしてみると変われるって素晴らしいことだ。
もっともっと賢くて感受性が高ければ、きっと変わるべきこと変わるべきでないことを見定めたり、自分の中の変化や変わらずにいることにも敏感だったりするんだろうけども、生憎?幸いにして?鈍感な部類の人間なので分からないまま流されつつ40年ぐらい生きて死ぬんだろう。
そうしてみると、人生を楽しむ、この一瞬、目の前のことに向き合うということの大切さも今さらながら分かる気がする。
おぉ!気づいたら久しぶりにかなりポエミーになってしまった(笑)
進次郎も真っ青だ!!
今日はこの辺で。へばまた!!!