【つれづれ】 不惑!? いや、惑ってナンボでしょ!
今日ついに40歳になった。
1月末には待望の第一子も生まれる予定だし、取り敢えず健康で夫婦仲良く生きているので、感謝!感謝!
実にありがたい。
これで人生の約半分を過ぎたことになるけど、多分わぁんどが年寄りになる頃には100歳が当たり前になっているだろうから、これからの時代は60歳ぐらいまで若手の扱いなんだろうな(笑)
30歳以来の10年ぶりのキリの良い年齢なので、なんとなく39歳から40歳へのカウントダウンをするために夜更かしした(笑)
なんか意味も無く興奮したせいでうっかりして0時ちょうどの証拠写真を撮るのを忘れ、40歳だからと0時40分に写真を撮って満足するという意味不明な行動をとってしまった(^_^;)
さて、昔から40歳というのは「不惑」と言われ、これは誰もがご存知のとおり、孔子の言行を記した『論語』にある「四十にして惑わず」からきている。
40歳で心に迷いが無くなったとは、さすが孔子!
しかし我々一般人はたかだか40歳で迷いが無くなるなんてことは有り得ない。
まぁ有り得ないは言い過ぎか。天才でもない限り、なかなかそう上手くはいかない。
わぁなんて特に、そこそこ自己啓発の類の本も読んできて自分なりに実行して、それでもあれやこれや上手くいかず惑いっぱなしなわけだから、40歳が近づいた数年前から「どうすりゃいいの?」と、なかば強迫観念のように「不惑」に囚われてたと思う。
そういう日々を3,4年ほど過ごしてみて行き着いたのは「これからも迷い、惑い続ける自分に対し徐々に惑わなくなっていくな」という実感だった。
いわば「惑うことに惑わず」という実感。
正直なところ、10代の頃に想像していたのとは程遠い20代、30代を過ごしてきて分かったのは、人間なかなか理想のようにはいかないし本質はいつまでも変わらないものの、やり続けたことは必ず何かの形で身になって、いずれ自分を助けるものになる、ということ。
APPLEの創業者スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式のスピーチで言ったように
「後に振り返って見た時にしか、点と点を結びつけることができない」
のは正しいなぁと感じている。
「未来を見据えて、点と点を結びつけることはできない」
ジョブズですらそうだったんだから、ましてや我々は尚更だ。
だからこそジョブズが言ったように
「とにかく、点と点が未来に結びつくと信じなければならない」
のであり、
「自分の根性、運命、人生、カルマ、たとえそれが何であれ信じなくてはならない」
ということになるわけだ。
点と点がいずれ未来に結びつくと信じることにより、自分の心に従う自信を持つことができれば
「それが多くの人が通る道から外れる道へ導くとしても、大きな違いを作り出す」
ということになるわけだもんな。
そして、わぁとしてはそんな時「惑っていて良いんだ」と言っておきたい。
むしろ惑わないと心に決めたり、惑わない境地に至ることは、他人の言葉に耳を貸さないようなことにもなりかねず、それはそれで危ないだろう、と。
これからも惑い続ける、だけど惑うことを恐れない、嫌がらない。
「惑うことに惑わず」
一応、これが40歳になった わぁの一つの結論。
今後また生きていく中で何かしらの学びや気づきで変化していくだろうけど、令和元年9月20日現在、わぁは惑いながら生きていくことを受け入れた。
へばまた!